罰則条項


 空気が揺れる感じと、ガツンといかにも固いものに当たった音。
 しかし、衝撃がない。目を開けてみれば、拳を腹に抱え込んでさっきの男が痛がっていた。そうして、響也の横には、殴られたのだろう(成歩堂)が、顎を片手で撫でながら突っ立っている。

「痛いじゃないか。」

 言葉とは裏腹な、少しも、苦痛を感じていない様子に、絡んでいた男も声をなくす。
 驚きに一瞬で酔いが醒めたのかもしれない。
「知らないかもしれないけどね。
 彼、公務員には間違いなくても検事って職業は警察なんだよ? 逮捕されちゃうよ?」
 そう言って唖然と立ちつくす響也を指さす。
「そこらへんにいるお巡りさんよりも遙かに偉いんだよ? 知ってた?」
 飄々と話す成歩堂の様子に、未だに不服がありそうな酔っぱらいと違って、周囲の同僚達は状況を理解したようだった。慌てた様子で、何度も頭を下げて男を引きずって立ち去っていく。
 響也も呆気にとられてそれを見送ってから呟く。
「…僕には治安維持の権限はないよ。」
「嘘も方便だよ。 へぇ君も喧嘩なんかするんだねぇ」
 感心したように呟く男を見つめる。酷く心が揺さぶられる事に響也は動揺した。
 なんで、成歩堂龍一が此処に?
 そして、この辺りは彼の職場を含めた馴染みの場所だったのだという事を改めて思い出した。無意識のうちに、彼のテリトリーに入り込んでいたのは自分の方だったのだ。
「喧嘩じゃない、単に絡まれてただけ、だ。」
 ボソボソと歯切れも悪く反論すれば、嫌らしい笑顔で返される。
「珍しいね、こんな場所。よく来るの?。」
 ふるりと響也は首を横に振った。ふうんと感心があるのか、ないのかわからない声色で返事がくる。
 自分の事を嫌いだと言ったくせに、どうしてかばってくれたのか、その方がよっぽど可笑しい話だろうと響也は思う。
 すっと、成歩堂の指先が響也の頬に置かれた。少し固い指先と、触れ方が無骨でこの男らしかった。温かな体温がそれを通じて伝わる。
 振り払う事なく見つめていれば、にやりと笑う。
「ぼこぼこにされてしまうには、随分と惜しい顔、だよね。」
「何それ、アンタ。口説くのはだれでもいいのかい?」
 はぁと溜息をつけば、指は引っ込んだが、にやにや笑いは止まらない。
「惜しいと思ったから、そう口にしただけだよ。僕はそんなに器用じゃない。」
 両手をパーカーのポケットに突っ込み、特に何という事もなく立ち去ろうとした成歩堂を響也は呼び止めた。
 ん?と振り返る顔に、お礼を言ってないと告げれば『おいで』と手招きされた。
 呼ばれるままに、成歩堂の後を付いていけば古びた木造建築の扉まで連れて来られる。こぢんまりとした清楚な佇まいは品があり、何処か好感が持てた。
「何、此処?」
「ちょっと値の張るお店。僕にお礼してくれるのでしょ?」
 はぁ? 響也の口が一瞬かぽっと開いたのを見て、成歩堂は爆笑した。
「そんな顔もするのだ、君は」
「するさ、悪いか。」
 むっと顔を歪めて、響也は扉を開ける。この高い店で何かを奢れという事だと理解出来たからだ。
彼の事務所の経済状態は、おデコくんから聞き及んでいるから、それに疑いは持たなかった。
 疑うのはこの男の神経だ。嫌いといった人間と一緒に食事をして楽しいのだろうかと思う。そして、兄の親友と称していたのだと思い出し、納得する。
 あの兄と友好関係を結べる相手なのだ、自分の神経とは、きっと格が違うに違いない。

◆ ◆ ◆

 そこは、ゆったりとしたジャズナンバーの流れる店。
備え付けの舞台では、生演奏が行われている。その横、今は布で覆われているがピアノらしきものが見えるから、成歩堂は此処でも、ピアニストとして働いているのかもしれない。
 親しげに店主らしき人と話をした後に、彼はテーブルに戻ってきた。テーブルには蝋燭の温かな橙色の光が、綺麗に磨かれた硝子の中で揺らめいている。
「適当に持ってきて貰うから、払いはよろしくね。僕財布なんて持ってないから。」
 目の前で、ヒラと手を振られ、最初からそのつもりだったくせにと、響也は内心毒を吐く。
 心象が良い店とは、お世辞にも言えない状況だったけれど、置かれたワインは、それなりの銘柄で運ばれてくる料理も悪くはない。
 しかし、密やかにでも会話が流れる他のテーブルと違って、成歩堂と響也の間に言葉は交わされなかった。 
 成歩堂は、黙々と料理と葡萄酒(だと思っていたらジュースだった)を口に運び、響也はツマミを少量口にした以外には、食欲は湧かなかった。
 兄のようにもなれないらしいと、ひとり語つ。
 当然だろう。兄と同じを望むなら、そもそも検事職など望まなかった。
 自分は自分だ。
 好意を向けてこない相手と共にプライベートな時間を楽しむ事など出来そうにない。
 そして、手持ちぶさたに舞台の上を眺める。
 流れるリズムは、少しばかりアップテンポの曲に変わっていたが、熟年の男達が奏でるメロディは、それでも何処かもの悲しく、寂しいものに響也には聞こえた。 
 トントンと指輪のついた指先が、苛立たしげにリズムを刻む。
 違う、そうこれはもっと…。
 気付いた時には、立ちあがっていた。
 舞台に向かう響也を、成歩堂はもちろんのこと、誰ひとり留める人間がいないのを良いことに、舞台の上、誰のものでもないマイクに手を伸ばす。
 スポットライトなど当たらない。それでも、響也は息を吸う。
 流暢な英語が響也の口から流れ、店内に広がっていく様子を成歩堂は、黙って見つめていた。

◆ ◆ ◆

  再び、響也がテーブルに戻ってきた時には、置かれた皿は全て下げられており、成歩堂と響也のものらしい珈琲のカップがふたつだけ鎮座していた。
「珈琲に煩い人から教わった店だからね、きっと美味しいよ」
 消えた料理の行方など、きっと響也は気にしないだろう。成歩堂はカップを鼻先に持ってきて、黒い液体の漂わせる香ばしい匂いを楽しんだ。
 なにせ貧乏暮らしだ。
 珈琲一杯だとて大した贅沢に違いない。もっとも、弁護士をしていた頃も裕福だったとは言いにくいのだけれど。
 響也も同じ様に珈琲に口をつけながら、チラチラと視線がこちらへ向く。
先程の行動について何か言ってくると思っているのだろうか、けれど成歩堂は特に何も言うつもりはなく、沈黙の果てに、響也はポケットの中を探り、そこにあったものをテーブルに置いてみせた。
 皺のよった福沢諭吉は、八つの瞳で成歩堂を見返している。
「四枚って」

 そう言葉にしてから、響也は拗ねたように唇をとがらせる。
「安いのかな、高いのかな。僕には検討がつかないよ。」
 そう告げられて、それが、響也に渡されたチップなのだと気が付いた。
 正直なところ、成歩堂から見れば遙かに高かった。
 ピアノを弾けば、もう辞めてくれと千円札をもらったりするが、それとは部類が違うはずだ。成歩堂はテーブルの向こう側で肘をつき、子供の様に拗ねている青年に話し掛ける。
「…ミリオンボーカリストの君が、四枚なんて安いに決まっているだろ。」
 はっと、視線が成歩堂に向き直る。テーブルの上に置かれた響也の手がくっと握られるのが見えた。彼の指にはまった銀色の指輪が、鈍い光を返してくる。
 それに気付かぬふりをして、成歩堂は言葉を続けた。
「以前の君なら、もっとふっかけていたんじゃないのかい?」
「…歌うのは嫌いじゃない」
 間髪入れずに返って来た答えには、ふうんと頷いてみせた。
 どんな答えを響也が望んでいたのかわからないが、彼はそれっきり黙り込む。成歩堂は此幸いと不躾な視線を響也へと送った。

 牙琉と似ているようで、やはり違う。

 それが、率直な成歩堂の感想だった。七年という年月は、短くもあり長くもある。
 腹の中を探り合っていたとはいえ、それだけの時間を友人として過ごせば、奇妙な親しさ…馴れに近いのだろうが、が生まれていた。
 けれども、どうも響也は予定調和を崩すタイプの人間で、無遠慮な、子供を彷彿させる行動に、妙に煽られる自分を見極めきれない。

 この間、謝罪に訪れた時も『嫌い』などというつもりなど無かったのだ。
 自分も大人で、響也とて、もう大人だ。相手が謝罪してきたのなら、気にしてないよと流せば済む話だったはずだ。成歩堂がそう言ってしまえば、二人の関係は過去に確執があって少々気まずい知人…それで終わっていただろう。
 けれど、成歩堂は敢えて『嫌い』という言葉を使った。
 顔色を悪くしながらも、それを受け止めた響也に、罪悪感に似た何かを感じながらも、訂正しようという気が起こらない。
 勿論、憎んでいるとか、恨んでいるとか言う気持ちで無いとはっきりと言えた。腹の中で蠢く憎悪という物がどんな形と姿をしているのか、成歩堂にはわかっている。

「いつまで、此処にいるの?」

 秘やかな声が、成歩堂を呼んだ。
 相手が黙り込んでいるのを良いことに、結構な時間、思考に浸っていたらしい。成歩堂は、トレードマークとしてきたニット帽子を下げ、目元を隠してから、口角を上げた。
「僕といるのは、退屈かい?」
「アンタこそ、僕と一緒にいて嫌じゃないのかい?」
 口元に引き寄せられた指先が、響也の唇でカシと音を立てた。苛立つと爪を噛む癖に、牙琉に殺されてしまうよ、などと思い苦笑する。もう、あの男は此処にはいないのだ。
「…どうかな、余り気にならない性格でね。」
「僕は気になるよ。」
 ドンと響也の拳がテーブルを叩けば、カップとソーサーが擦れ逢う乾いた音が続く。苛ついた表情を隠そうともしない様子が、王泥喜くんやみぬきに対する時には考えられなくて、妙に心惹かれた。
 検事である彼も、ミリオンボーカリストである彼も、成歩堂の興味を引かなかったというのに。

「荒れてるねぇ。」
 
 言葉にして、腑に落ちる。どうも自分はこの青年の取り澄ました顔が嫌いなのだと気付いたのだ。


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